自分の当たり前は、他の人の当たり前ではない。という、当たり前の気づき
「自分の当たり前は他の人の当たり前ではないこと」って、当たり前のようなことなんだが、これをたまに忘れてしまうことがある。
「自分はこうしているから相手もこうしているのでは?」と思ってしまうものだが、話してみるとまったくの見当違いだった、ということはないだろうか?
発覚した、カレーとの向き合い方の違い
この間、友人ふたりとビデオ電話飲み会をした。夜の7時ごろだったので、各々が料理をしながら、食べながら話す、ゆるーいビデオ電話だ。
私はカレーを作っていた。カレーは私のなかでは、週1回の、THE・手抜き、息抜きの定番料理だ。それを友人に話すと、それを聞いた友人は「え〜カレーって、手間かかるじゃん、月1くらいしか作んないな〜」と言うのだ。
そして友人たちは続ける。「野菜切って炒めてお肉も炒めて結構時間かかるじゃない〜?」「そう、うちはカレー粉を炒めるところからやるよ。」
それを聞いた私は「え、ちょ待て待て待て、そうなの?」頭がハテナで覆い尽くされてキャッチアップできない。「野菜を炒める?カレー粉を炒める...?」
「我が家ではその日あまっている具材を切ったら、鍋に水からぶちこんで煮込むだけやで。んで、煮たったら、トマト缶入れて酸味出して...だからカレー作るの全然ハードル高くないのだが...。」と私は説明を続けるが、「えー!カレーは炒めるんだよ〜!」「カレー粉の箱の裏に説明書いてあるから読んでごらんよ!」と続く友人。
確認すると、カレールウの箱の裏には「油で炒める」としっかり書いてあった。「ほら〜!」と友人たちが笑う。目からウロコ状態の私。
「カレーは炒めてから作るものだ」という事実は、脳みその片隅には置いてあったが、私の長年の「当たり前」ではないものだから、忘却の彼方へ消え去っていたのだ。
家庭はひとつの小宇宙だ。
日本のどこのスーパーに行っても、同じようなメーカーのカレー粉が陳列されている。そうチョイスは多くないはずだ。
それでいて、カレーの完成形と、それにいたるまでのプロセスが、こうも違っていて、同じ日本人でありながらも、異文化交流をしているようで、おもしろおかしかった。
私たちは同じ「日本」という国号でまとめられてこそいるが、ひとつの家庭はひとつの小宇宙で、みんな違うのだな、感じさせられる。そして、みんな違ってみんな魅力的である。
私の母の小宇宙では、カレーといえばほぼ煮込みだった記憶があるので、私の中ではそれが当たり前になっていた。(母からしてみれば、そんなふうにしていたつもりはないかもしれない。)
自分の当たり前が、他の人の当たり前かどうかは、ぶつけてみるまでわからない
自分のなかで蓄積されてきた「当たり前」のカレーの作り方は、自分のなかでは普通すぎて言うまでもない、と思ったりするわけだが、今回不意にもさらけ出してみたことで、お互いに発見があった。
私のカレーを作るプロセスが当たり前でないことを知ったとともに、友人にとっての「カレーは手間のかかるもの」「カレーは炒めるもの」という当たり前もまた、私によって覆されてしまった。マイノリティ(少数派)ではあるが。
カレーに学ぶ、哲学。
今回の事例で学んだことをまとめると、ざっくり言って3つだ。
1.「自分の当たり前」の中に、長く居座りすぎてしまっていたこと
2.「人の当たり前」はおもしろいし、「自分の当たり前」もきっとおもしろくて、シェアしあうことで、人生が豊かになるということ
3. だからもっと「自他の当たり前にオープン」でありたいこと。
カレーは様々なことを教えてくれた。
なんだか世界が平和になりそうな勢いすらある。
そして、一皿のカレーをとおして、たくさんの大事なことに気づかせてくれた友人ふたりに、心から感謝したい。
そのうち、手抜きではないカレーも「炒めるところから」作ってみたいと思っている。
みなさまにとって、「当たり前」の「週1のTHE手抜き・息抜き料理」は何ですか?