「発信する側」になって、気づいた大事なこと7つ

Off Target @Nashy, 2021

あなたの周りには、何かを発信したり、何かを始めてみたり、何かに「頑張っている人」はいるだろうか?

私の場合、結構いるなあ、と思っている。そしてまさに今、私自身が、一抹の罪悪感を抱きながらも「イラストレーター」 と名乗り始め、絵や文を公に公開したりして、約3ヶ月になる。

「たいした絵も文章も発信してないやん!」と言われてしまえば、ぐうの音もでないのだが、今まで発信をしてこなかった自分が、微力ながらも「何かを発信する側」になってみて、日々思うことが出てきたのでシェアしたい。

もうすでに何かを発信をしている人には、きっと共感できるところがあるかもしれないし、そうでない人にも「相互理解」としての気づきがあったら、万々歳だと思っている。ぜひ最後までお付き合いいただけると幸いだ。

01. なにかを作るって、すごく大変だということ

私は、絵が特別にうまいわけではない。学生時代、「クラスで1〜2人はいる、絵の描ける人」的なポジションだったとは思っている。

そして、絵を描かない人から見ると、絵が描けるのは「才能」があるからだとか、「ささっと描けるんでしょ」と思われがちである。そんなチヤホヤ感に浴し、まんざらでもない自分がいたりする一方で(本当に嬉しい)、「そこまでシンプルでもないんだよなあ」と「才能」のラベルをはがしたくなる捻くれ者の自分がいる。

たぶん、みなさまにも情熱をつぎ込んでいる分野があるように、絵が描ける人というのもまた、世間が思っているよりも、絵の練習をしている。

簡単に描かれたように見えるイラストでも、いくつもの資料探しからはじめ、構図も何パターンも考えている。構図も「センス」ではなく、理論があるので、勉強している。たった1mm、線の感じがしっくりこなければ何度でも描き直しているし、色の組み合わせも考えている。そして喜ばせたい相手やクライアントを、気持ち悪いぐらいに想いながら←、描くのだ。

そしてそれは、私の創作物に限った話ではない。

日常に溢れかえっているイラストやグラフィックデザイン 、映像、YouTube、テレビ、その他数えきれないコンテンツがあるわけだが、これらはパッと見れば、能力の高い人がさくっと作ったのだろうと感じてしまわないだろうか?

私は、安易にそう感じていた。もちろん、長年の練習の結果として、サクッと作ることはできるかもしれない。だが、発信することが「他人ごと」ではなく「自分ごと」となった今は、シンプルな創作物1点にしても、作者が注ぎ込んできたストーリーやお金、時間、そして情熱が詰まったものだという視点を持つことができるようになってきた。

02. 毎日辞めたくなるが、それでもやりたくなること

ぶっちゃけ、絵を描くだけなら発信しなくても良い。

でも、10年後には自分の創作物でひとりでも多くの人を喜ばることのできる自分になっていたいから、発信したい。

今は活動を始めたばかりなので、ひたすら作品を描きため、できるだけ公にし、たくさん失敗をし、そこから学び、上達することに専念している。

とは言いつつも、SNSなどで発信し、全く反応がなかったりすると「そういうもんだ」と思いながらも、しょぼん...となる。

それはもう、毎日のように発信することを辞めたくなり、それでいてもなお、また毎日のようにやりたくなるので、摩訶不思議だ。

そうして一喜一憂を繰り返しながら、また何かを描きあげ、今日も落ち込むとわかっていながら、それでも、世に晒す。
これは私にとって、楽なことではない。本当に怖くて、勇気のいることなのだ。

もちろん、はじめてアウトプットした時に比べて、継続することによって、アウトプットの心理的なハードルはかなり下がってきている。

反応が少なくとも、良い意味で慣れてきている。「人の反応を気にするぐらいなら、手を動かせ!」という言葉を「イラストレーター 生存戦略」というチャンネルを運営する粕田さんという方が言っており、それが今の自分のモットーになっている。

人の反応のためにやっていることではないと自分に言い聞かせつつも、人の反応がなければすぐにしょぼんとなり、人の反応ひとつでまたやる気が出て頑張れるという面白さを味わいながら、なんだかんだ活動を続けてこれている。

03. 頑張って発信している人を、もうバカにできないこと

ようやく発信者の苦悩や情熱が理解できるようになったからこそ、頑張って発信している人を積極的に応援したいという気持ちがある。

しかし、過去の私がやってきたことといえば、発信する人や作品に思いを馳せることではなく、「消費」「批判(というかただの悪口)」「無関心」である。

自分が発信をするまで、自分は何をするにも「受け身」であったことに気がついた。

とりわけ芸能界とかには興味がないので、TVを見ては「おもんない」と、ただただ芸能人や企画を心の中でバカにしていた。

発信する側の大変さも、難しさも知らずに。

2020年は著名な人々の自死が相次いだ。どんなに心ない批判でも「有名になりたくて芸能人やってるんだろ?だったら批判されることも覚悟しておけ」と正当化されてしまう風潮は怖い。

そんな社会が彼らから安全地帯や逃げ場を奪ってしまったのではないかと考える。頑張っているのに、そんな社会ならば、身を捨ててしまいたくなるのも分かる気がする。

04. 「そんな世の中」を作っているのは「自分」かもしれないということ

上記の件を通して、芸能人もなんら変わらぬ人だということを、そして、上記で記した、過去の私がやってきたことを考えると、そんな「社会」を作っているのはまぎれもない「自分」ではないか?ということを、痛感させられた気がする。

受け身でいることは「楽」だ。入ってくるものに思い思いに反応をするだけで良い。それに、自分が受け身であるということに自覚がなかったりするものだ。

そして、無自覚な受け身の自分が「こんな社会」と憂いてばかりでは「こんな社会」が続いていくのも無理はない。なぜなら「こんな社会」を作っているのはどこぞの大統領でもおえらいさんでもなく、紛れもない自分なのだ。

発信を始めたことによって、「こんな社会」と嘆くよりも、「こんな社会」をより良くするために頑張っている人たちの活動などに目がいくようになった。すると、「こんな社会」と思っていた社会も「捨てたもんじゃない社会」「おもしろい社会」になっていったりするものだ。

やはり、「社会」とは「自分」であると実感せざるを得ない。

そんな内省と反省を繰り返しながら、私は自分の活動で社会をおもしろくできるだろうか?と模索する日々が続いている。

05. 人が「応援したくなる人」でありたいということ

ある程度結果を残せば、おのずと応援してくれる人は増えるだろう。しかし、現在・無名の私には、周りの人のサポートがないとやっぱり活動なんかできやしない。

ある時、務めていた会社は「結果が全て。結果を出してはじめて、プロセスに興味を持ってもらえる」というフィロソフィーを持った会社だった。

以前はそれはそれで楽しんでいたのだが、今の自分的には、それではちょっと味気ないなと感じている。

4年ほど前に、広告代理店で務めながら「WEBデザイナー に、私はなる!」なんて言って、仕事の休み時間はそれの勉強にあてていた時期もあった。(結局、WEBデザイナー にはならなかったが)

そこでもやはり、サポートをしてくれた人たちが数名いた。その人たちは夜な夜な残業で忙しい中、「クリエイター気質の人を見ると、なんかほっとけないんだよねえ。」と言って、合間を縫っては、私のデスクまでふらりと遊び(サボり)にきてAdobeソフトの使い方を教えてくれたりしたものだ。私がWEBサイトのコーディングで手間取っていると、それを仕事上がりに手伝ってくれる友人もいた。

今も昔も、結果を出したあとの私ではなく、「頑張りたい私」のプロセスを自分ごとに応援してくれる人たちがいたから、やってこれている。

日々サポートをしてくれるパートナーのマイケル氏をはじめ、家族や友人、noteやSNSでつながった優しさ溢れる人たちの存在が、本当にありがたい。

この人たちから「応援してやっても良いよ」と思ってもらえるように、日頃から感謝を示し、謙虚に、熱量を持って活動していこうと思っている。

06. フィードバックが宝だということ

会社員時代、チームで働いていれば、当たり前のようにもらうことができた「フィードバック」。今はひとりだから、これはもう当たり前のものではない。

そのため、ひとつひとつのフィードバックが本当に貴重だ。

気持ち悪がられるかもしれないが、周りの人がくれたフィードバックやコメントを、わたしはメモしたり、スクショしたりしている。

そしてそれを、大事なへそくりを箪笥にしまうように、そっとアーカイブしておくのだ。

自信を失うと、どれだけ周りの人が嬉しい言葉をプレゼントしてくれようとも、素直に信じることができず、スルーしてしまう傾向にあることを、自覚している。だから、あえて既成事実をキャプチャしておくことにした。

そしてその事実が詰まったアーカイブは私を守ってくれる「安全地帯」となっている。それはまるで、優しさのことばで満たされたプールのようだ。疲れたら、ここに帰ってきて、まわりの人への感謝だとか、自己肯定感や効力感とかを再チャージし、また創作をするのだ。

「ばばあのくせに!」「今からじゃ無理でしょ!」とかじゃない限り、いかなるフィードバックは、愛である。

それを与えてくれる人たちに心から感謝している。

07. 頑張っている人に、もっと寄り添いたいこと

「発信する人」とは単に、オンライン上で声を上げている人だったり、表現する人たちだけではない。

自分で起業をしたり、お店を開いたり、自分でいちから何かをしているひとたち。地域に貢献しようとしている人たち。たいそれたことでなくても良い。いくつになっても、ちょっとしたことでも良いからなにかに頑張っている人たち、これから頑張っていこうとしている人たち。

今まで、誰かが何かを始めるとなったら「すごい!いいね!ガンバ!」ぐらいにしか声をかけてこなかった。本当に悪気はないし、悪いことではないだろう。ただ、今思えば、もっとあのとき、あの人にあんな風に応援を行動で表し、寄り添うことができていたら...と反省が次々と舞い込む。

「Black Lives Matter」の件では、声をあげない罪深さという概念も問題視された。弱い立場のものが声をあげるだけでは、やはりまだまだ弱いままなのだ。

「自分はレイシスト(人種差別主義者)ではない!」と「思っているだけ」では、言葉が乱暴かもしれないが、「思っていないのと一緒」と見えてしまう、ということである。

社会的に強い立場のものが「自分は社会的に強い立場にいる」ということを(難しいことではあるが、事実と認め)自覚し、社会的弱者の味方であると行動で示し、一緒に戦わなければならないのだ。

社会問題にまで言及してしまったが、言いたいのは、私にはまだなんの力もないが、自分の過去の態度を反省し、今は「なにかに頑張っている人たちの強い味方である」と「行動で示していきたい」ということだ。

今、自分でなにかを作っていこうとする立場になってはじめて、周りの人のサポートがなければできないということを知った。そしてそのサポートやフィードバックは、当たり前ではないことと、それらのありがたさが一層、身に染みるようになった。

だから、何かを頑張ろうとしている人が周りにいたら、もっと興味をもって、積極的に応援の気持ちを行動で表して、寄り添っていきたいなと、私は思ったのだ。

私の「頑張りたい」を自分のことのように、応援してくれるあの人たちのように。

おわりに

気がつけば思いが溢れ、5000字を優に超えてしまった。ここまでお付き合いいただいた方に感謝したい。(最後まで読んでくれた人いるのかな...?)

「他人ごと」を「自分ごと」にするには、結局のところ、なんでも自分で体得してみないと分からないものだ。

だが、ひとりの名も無きオトナの大学生イラストレーター の気づきをとおして、「あ、そういえばあの人、こんなことに頑張ってたかもな...」と再認識する機会になったのであれば嬉しい。そして、身近にいる「頑張る人」の味方になる人が、世の中にひとりでも増えることを願って、筆を擱きたいと思う。

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